中村照夫

NY在住50年のレジェンド・ジャズ・ベーシスト、プロデューサー。
日本人ジャズメンとして前代未聞の全米チャートTOP10入り(1977年『マンハッタン・スペシャル』)の快挙を成し遂げた。

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    Dave's Corner and Police Car

    price: ¥20,000(税込)/edition: 10/size: W319 x H410 x D31 mm

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    New Port Jazz Festival. Wes, Wynton, Paul & Jimmy

Chapter 1

レコードをプロデュースしている時にアーティストの写真がアルバム・インナー用に必要になる。最初はカメラマンを雇っていたが時間的にも経済的にも制約があり、まどろっこしいので自分でカメラを購入してアルバムのインナー用に撮り始めた。そのうちにカメラが好きになった。

その時の感動が撮れない写真は意味が無いと思う。その時の感動が撮れていれば、その写真は時間が経つと時間の公証に成る。その時の空気を切り取る事が出来る。そこが好きな部分。

写真は絵とも音楽とも違う。絵には作者の創造が入り込む。音楽はその時の空気を撮る事は出来ない、録音はライブとは違う、写真はその時の時間を輪切りにする事が出来る。音楽は刹那的でその時にいないとその空気を体感する事は無理なのです。

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    Under The Blooklin Bridge with Car
    「ダンボからのブリッジ」

    price: ¥20,000(税込)/edition: 10/size: W319 x H410 x D31 mm

    ブルックリンブリッジが見えるこの場所は、今ではキャデラックやBMWのコマーシャルの撮影で使われる様になった。この橋の下の近くには有名なレストラン「リバー・カフェ」がある。その昔、隣にバーが有り、そこでピアノのヒルトン・ルイスと一緒にジャズのギグをした。

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    Brooklyn Bridge with Three Ladys
    「橋の上」

    price: ¥20,000(税込)/edition: 10/size: W319 x H410 x D31 mm

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    Fishing at Liberty Park... WTC & Empire
    「釣り人とワールド・トレード・センターとエンパイア・ステート・ビル」

    price: ¥20,000(税込)/edition: 10/size: W319 x H410 x D31 mm

Coney Island #1, #2, #3, #4

年に一度の国際ホット・ドッグ早食い選手権で1916年創業のホット・ドッグの老舗「ネイサンズ」1号店があるコニー・アイランド。

コニー・アイランドは歴史的な海水浴場。ボードウォーク、遊園地、木製のジェットコースター「サイクロン」も有名。ノスタルジックでファンキーでひなびていて、それが好きで良く行った。

住人はブルックリン訛りを喋るし、ブルックリン独特の文化がそこにはある。

コニー・アイランドの近所にシープシェッド・ベイという場所がある。その場所から釣り船が出ていてカレイ(フラゥンダー)や鯛(ポーギー)等が釣れる。夏から秋まで釣り人でにぎあう。

魚釣りに行った帰りに良く立ち寄った「Randazzo」というシーフードを食べさせる店が有る。

ここのホット・ソースがかかったフライド・カラマリは最高! そしてチェリーストーン・クラムなんかも最高に美味い。

このレストランは私にはヘブンだ!

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    Coney Island #1
    「コニー・アイランド 1」

    price: ¥20,000(税込)/edition: 10/size: W319 x H410 x D31 mm

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    Coney Island #2
    「コニー・アイランド 2」

    price: ¥20,000(税込)/edition: 10/size: W319 x H410 x D31 mm

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    Coney Island #3
    「コニー・アイランド 3」

    price: ¥20,000(税込)/edition: 10/size: W319 x H410 x D31 mm

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    Coney Island #4
    「コニー・アイランド 4」

    price: ¥20,000(税込)/edition: 10/size: W319 x H410 x D31 mm

Dave's Corner on Broadway and Canal Street in Tribeca

ブロードウェイとキャナル・ストリートの角に有った人気ダイナー。24時間営業でカウンターではホット・ドッグとチョコレート・エッグ・クリームを売っていた。

70年の中頃、私が住んでいたトライベッカはあまり人が住んでいなくて廃墟みたいな地域。

アーティストにとってはロフトの天井は高く、創作活動や音楽のリハーサル等が出来て住みやすかった。そのうちトライベッカの魅力を知る人が増えてロバート・デ・ニーロやベット・ミドラーなんかが住み始め、知名度が上がって行った。そして金持ちが移り住み始める。

アーティストには家賃が値上がりして住みにくい場所に代わり始めた。私が住んでいたロフトは一ヶ月のレントが1,200ドル、ある日、10,000ドルに成った!「払える訳がねーだろー」。

大金持ちのアーティストは今でも住んでいる。例えばスカルプチャーのオルデンバーグ(Claes Oldenburg)とか。アーティスティックな感じは残されているけれど、私の住んでいた自由でポジティブな感じの場所ではなくなった。トライベッカの名前の由来はTriangle Below Canal Street。

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    Dave's Corner on Broadway and Canal Street in Tribeca

    price: ask/size: ask

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    Indian Summer Tribeca

    price: ¥20,000(税込)/edition: 10/size: W319 x H410 x D31 mm

Chapter 2

住みにくく成って来たトライベッカを離れ30丁目の8thと7thの間に住んでいた。

マジソン・スクエア・ガーデンとメイン・ポスト・オフィスがすぐ側にあった。界隈はウイークデイは人も車もいっぱいだが、ウイークエンドが来ると私のロフト6階の窓から見える道路に人がいなくなる、パーキングからも。

私は一週間単位で毎日が動くのがどうも好きになれない。なぜなら毎日が日曜である事が最高だと思っているから。外の景色から何曜日だか私にリマインドされるのは嫌だった。

そして、この場所から引っ越す事を余儀無くされた事が起こった。9・11の後にブッシュ大統領の共和党のコンベンションがマジソン・スクエアで開催された。そのコンベンションの警備で、私の住むビルの屋上や非常階段の上にポリスがライフルを持って警備にあたっていた。実に不愉快きわまりない光景で、この時を機にハーレムに引っ越す事にした。

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    Empty Parking Lot in 30th Street

    price: ¥20,000(税込)/edition: 10/size: W319 x H410 x D31 mm

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    Full Capacity Parking Lot in 30th Street

    price: ¥20,000(税込)/edition: 10/size: W319 x H410 x D31 mm

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    Lower East Lady

    price: ¥20,000(税込)/edition: 10/size: W319 x H410 x D31 mm

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    Man & Bottle 8th Ave 30th Street

    price: ¥20,000(税込)/edition: 10/size: W319 x H410 x D31 mm

ハーレム

ハーレムに引っ越して来た。この場所は相変わらずに人種差別だらけ。

私が70年代始めにハーレムにジャズを聴きに出かけた時は、ハーレムで白人を見かける事はほとんどなかったが、中国人は見かけた。彼らはチャイニーズ・レストランやクリーニング屋などを営んでいた。その後に韓国人がグロサリー・ストアー、魚屋、八百屋等を始めた。良く人種間の問題が起こり、黒人と韓国人は険悪に成っていき韓国人の店は少なくなっていった。

今はお洒落なフランス料理屋やイタリアンなんかも出来て流行っている。

ハーレムは白人が住みだして変わったと言う人もいるけれど、私は変わったとは思わない。それはあたりまえ。なぜなら今まで平穏に?住んでいたゲットーの黒人達にとっては、いきなり家賃が上がり、白人が沢山押し掛けて来たら平和は無くなる。昔と比べると安全に成ったというけれど、安全は保証されていないのが実情だ。オバマが大統領になったって、人の考え方が10年~20年で変わる訳が無い。

60年代の後半にポリスが電話ボックスの陰から子供に向かってピストルを発射していたのを思い出す。

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    116th Street Central Park North Station
    「116ステーション」

    price: ¥20,000(税込)/edition: 10/size: W319 x H410 x D31 mm

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    Fire Hydrant and 2 Boys
    「ハーレムの子供と消火栓」

    price: ¥20,000(税込)/edition: 10/size: W319 x H410 x D31 mm

    ハーレムの暑い夏、涼しさを求めるゲットーの人々は消火栓を開け涼を取っていた。あまりにも多くの人々が消火栓を開けるので火事に成った時は水不足、消化が出来なかった事態が起こり問題になった。苦肉の策として消防署は沢山水が出ない様にする為の器具を消火栓に取り付けた。エアコンが普及していない時代には人々がイライラして暴動が起る原因にも繋がった。今はコントロールされていて、消防署の人が消火栓のコックを開けにくる所もある。

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    Man with Bass Drums

    price: ¥20,000(税込)/edition: 10/size: W319 x H410 x D31 mm

Village People

ある日私はニューヨークのコミュニティ新聞「Village Voice」に「モデル募集、報酬は100ドル」の広告を打った。60名が応募をしてきた、ランダムに男性6人、女性6人を選び、チェルシーのスタジオに集まってもらった。

その日は雨が降っていて、モデル志望者はみんなびしょ濡れでスタジオに入って来た。

写真はヌードと着物を着用した2ポーズ。参加した人はニューヨーカーのみでは無かった。

スウェーデンからやって来たばかりの女性はホテルも無く、行く所が無いと言っていた。

この写真を撮った目的はランダムなサブジェクト。JAZZと同様の即興的「インプロヴァィズ・フォトグラフィー」。参加者と面識も無し、名前も知らない、歳も知らない、職業も知らない、どの様な服装で現れるかも解らない。

今回、展示する写真は写真家・宮下明義氏がプロデユースした「Special thank's to Mr. Akira Ishino for suporting this project...」(1999年の8月20~27日に銀座のギャラリー“ガン”で開催)の写真の中から抜粋した。

当時はヘアーヌードは警察介入の危険性が有った。(それにしても不思議な言葉ヘアーヌード、ヘアーが無かったらもっとおかしい。)

私の友人達がギャラリーに来てくれた。そのヌードを見て眼を覆っていた人が多かった当時の光景を思い出す。よって、今回は男性の写真は遠慮して、美しい女性のみ、眼をそらす必要がないでしょ。

私の先輩の宮下明義氏が今月に亡くなった。November, 20th 2015
ありがとう。長い間いろいろと。
この展示を彼に捧げたい。

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    Lady A-1 / Lady A-2

    price: ask/size: ask

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    Lady B-1 / Lady B-2

    price: ask/size: ask

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    Lady C-1 / Lady C-2

    price: ask/size: ask

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    Lady D-1 / Lady D-2

    price: ask/size: ask

Bridges of Madison County

90年代「マディソン郡の橋」の本が世界中でベストセラーになっていた。その本をベースにしたアルバム製作のオファーがコロンビア・レコードより有った。

私は原作のストーリーに出来る限り忠実に制作をした。参加するミュージシャンも︎ヘレン・メリル(vo)、スタンリー・タレンタイン(ts)、スティーブ・フェローン(dr)、グラディ・テイト(dr & vo)、トゥーツ・シールマン(harmonica)、グゥエン・ガスリー(vo)、アンソニー・ジャクソン(b)のスター・プレイヤー達が参加した。

アルバムのジャケットの制作のため3月の初旬の寒いなか、写真を撮りにマディソン︎郡の橋のあるウィンターセットまで出かけた。本に書かれた通りのど田舎の何もない場所だった。

メインの橋ローズマン・ブリッジは確かにストーリーを書きたく成る様な橋だった。橋の裏の場所には養豚所があり、近所には牛を飼っている牧場も有った。

その時に気がついた事はその場所は冬は過酷で名前がWintersetという場所。︎夏は暑いし、冬は極寒、廃屋のカラーの写真を見れば如何に厳しい場所だか理解出来る。

余談だが、ディナーをスタッフ一同と食べに行った話。

これだけ牛や豚がいるのだから、美味しいステーキを食べさせる店が有るに違いないと思い、街でもトップクラスのホテルにステーキを食べに行った。ところが驚いたことに、靴の底を食べているみたいで固くて味が無くとても不味い。理由は美味しい牛肉はシカゴ、ニューヨークなどの大きな都市に売られてしまい、美味しいステーキは殆ど土地の人達の胃袋には入らないのだそうだ。

マディソン郡には橋が5本有った。映画の撮影で橋の塗装を科学薬品ではがして橋の古さを表現をする事で橋がかなり壊れた。

私はその映画が出来る前にマディソン郡の橋の写真を撮りに行った。この写真は最後のローズマン・ブリッジの勇姿。それらの写真は可成りの数になる。

35ミリだけでなく120ミリのローライの中判カメラでローズマン・ブリッジを始め5つの橋の写真を撮ってある。また、マディソン郡ウィンターセットに有った映画俳優ジョン・ウェインの生家の写真も撮った。とにかく寒かった、あまりに寒くて日本のカメラはシャッターが下りなかったがドイツのカメラ、ローライは問題なく撮影出来た。

マジソン群の橋の映画音楽はガール・トーク等の作曲で有名なハリウッドの音楽制作者レニー・ニーハウスによるもの。

私の作ったアルバム『思い出のマディソン郡の橋』(邦題)では物語の中で主人公の2人がジャズ・クラブに行くシーンではスタンリー・タレンタインが演奏をし、家のキッチンで主人公2人が踊るシーンではヘレン・メリルの歌を使った。またマディソン郡の橋のテーマではトゥーツ・シールマンがハーモニカを吹いた。私の音源は監督のクリント・イーストウッドが気に入り映画で使われそうに成ったが、結局はハリウッドの政治的な事情で使われなかった。

そのアルバムはコロンビアからリリースされヒット・アルバムとなった。

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Bridges of Madison County

イースター・パレードはニューヨークの春の風物詩。セント・パトリック寺院前の五番街をそれぞれの帽子をかぶってパレードする。

このパレードでは参加者を撮影すると皆喜ぶ。春の訪れを告げるイースター・パレードにウキウキしてお洒落な格好をしているハッピーな人ばかり! そんな人の表情が好きだ。機会がある度にイースターは写真を撮りに出かける事にしている。

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    Easter

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    Three Ladys with Hat

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    Face Painting

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    Easter Baby with Paper Hat

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    Picachew Hat

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    Baloon Vender

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    Lady and Gentleman

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    Baloon Man with Money in hand

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    Easter Parade photos price: ask/size: ask

Red Shoe

このネコさんの名前はレッド・シュー。

ポニーキャニオン・レコードからリリースしたコンピレーション・アルバム『What is?』のアルバム・ジャケットに使用した。

不思議なネコだった。ドラムスの植松良高がセカンド・アベニューのアパートに住んでいた子ネコを貰って来てくれたのである。とにかく人間嫌いな頭の好いネコだった。私の家に遊びに来る全ての人を引っ掻いた、被害者は多かった。私のスタジオのプロデューサー席に座って音楽を聴く趣味を持っていた。クラッシックの音楽をかけると何処かに消えた。ジャズをかけると戻って来てジャズを聴いていた。特にドラムのブラッシングの演奏が好きだった。

この写真は私に取って大変に貴重なワン・ショット!! なぜなら、何百枚と撮ったレッド・シューの写真、私に目線を会わせて撮らせてくれた写真はこの一枚だけ。写真嫌い、人の言う事は絶対に無視、全くの人間不信、ネコは犬と違う、犬は媚びる、ネコは……

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    Mr. Red Shoe

    price: ask/size: ask

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    Teruo Nakamura
    『What is?』 PCCY-30189

食べ物の話

そういえば、白人の住む街で演奏するのは嫌いだった。なぜならアングロ・サクソンの食い物は不味い。

デザートなんか緑色のジェロに缶のホイップ・クリームがかかっていたりして(冗談でしょって!)色彩的に考えてもまったくグルーヴしないでしょ。

シカゴとサウス・キャロライナ、クリーブランド、シンシナティとかゲットーのある街に行くのは最高だった。なぜなら、ソウルフードが食べられたから。これが、実に美味しいのである、スペア・リブとかフライド・チキン、クラブ・ケーキ、カニ・コロッケ、ポテト・サラダ、カラー・グリーン、ブラック・アイド・ピーズ、キャンディ・ヤム等々。

フランス、イタリア、サウス・アメリカ、フィリピン、ベトナム、タイ、これらの料理が食べられる街に行くと元気になった。そこの国から来たネイティブの人が住んでいて、その人達の文化を反映した食べ物が有る。そんな時に出会った事の無い味を知った時はその国の人達を尊敬した。こんな味があったなんて……!

Liberty Park, N.J.

私は1991年と1992年の独立記念日にリバティー・パークでジャズ・コンサートをプロデユースした。私にはDr.バトルと言うヒップな黒人の友人がいた。彼はジャージー・シティの出身でジャズが大好きで、その他アート一般にまで理解がある人だった。地域での政治的な繋がりも持ち、ジャージー・シティのジェラルド・マッキャン市長の選挙運動ロビイストも務め、私のバンド、ライジング・サンのプロモーションも手伝ってくれていた。ある日、ホームレスの子供の為に避難所を建てるチャリティー・コンサートを、ジャージー・シティの病院の為にプロデュースしないかと相談された。コンサートはマンハッタンを望むリバティー・パークで、7月4日のアメリカ独立記念日に行われる予定だった。コンサートの制作に興味がある事を彼に伝えた。

10万人以上の人が参加するイべントになるので資金が必要だった。後に朝日新聞アメリカの社長になる田村正人さんにスポンサーの相談をした(当時は朝日の新聞記者だった)。彼のコンタクトで、今は無くなってしまったエイペックスという教育関係の本を出版している会社がスポンサーになってくれる事が決まった。

91年のコンサートの当日は朝から雨が降っていた。コンサートは雨中で行われると思っていたが正午に成ったら奇跡的に雨が止み虹が出た。そのタイミングで虹の中を豪華客船のクィーン・エリザベス号がニューヨーク・ハーバーにコンサートを祝ってくれるかの如く入って来た。クィーン・エリザベスがステージの後ろを通り過ぎた時に白黒のフイルムの入ったカメラを持って行って撮影した、あまりの感動にカメラの画角は滅茶苦茶で写真に成らなかった。もう一台のカメラにカラー・フィルムが入っていたのでシャッターを押した。今はフイルムが変色をしてしまったが時代の公証にはなるかな?

コンサートはロバータ・フラックがメイン・ゲストに決まり、10万人の人がリバティー・パークにジャズと花火を見るために集まった。基金集めは無事に成功して、税金倒れで市が持っていた建物をホームレスの幼児がナースと一緒に住める避難所に改築した。子供達は病気ではないのだから病院に入院する必要はなかった。普通の形で生活が出来る事が一番大切なのだ。

この91年のリバティー・ジャズ・コンサートは成功。その時に産経新聞のNY支局長だった宮田一雄さんと知り合う。宮田さんはこのホームレスの為のチャリティの記事を日本の産経新聞に書いてくれた。宮田さんの新聞記者としてのライフワークがエイズの啓蒙活動である事を知りお手伝いする事をオファーをした。

そしてエイズのアウェアネスの為のグループ、JAWS(Japanese AIDS Work Shop Series)を当時の東京新聞の記者武藤芳治氏と設立、その公演を日本で開催する企画を宮田さんと立ち上げ産経新聞、日本航空などががその後10年近く公演のサポートをした。

産経新聞にしろ、日本航空にしろ、個人が行おうとする事によくもこれだけ企業体として応援をしてくれたものだと改めて思う。今考えてみると、本当に凄いことだった。

追伸:雨が降らなかったからコンサートは成功したんだよ、なんていうのは説明に成らない。プロデューサーはどんな時、どんな状況でも結果は出さなければ成らない。そんな気持ちで臨んでいたからこそ虹とクィーン・エリザベスを見た時の感動はけっして忘れられない。
その後もジャージーシティには良く出かけた。
リバティー・ジャズ・フェスの市長は汚職で後に御用に成った。

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    New York bay Queen Elizabeth at Liberty Jazz Fsetival

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マイルス・デイヴィス&ロイ・へインズ

マイルスは全てのアートの世界でもっともダンディな男だった。そして男にも興味が有ったようだ。私がロイ・ヘインズのバンドでアップタウンに有ったマケルス(スタッフが出演して有名だった)に出演をしていた時、マイルスが赤いフェラーリを運転して現れた。マイルスはロイをフェラーリに乗せてどこかへ消え2時間以上帰ってこなかった。何かを一緒にやりにいったんだと思う、それが何だかは正確に解らない。

この写真のマイルス、一番前に座っていたオーディエンスの女性に近づいてその女性のオッパイに向かって近い距離からトランペットを吹いていた。

ドラマーのロイもかなりヒップだったけど、無理、無理、マイルスの足下にも及ばない。

因みにマイルスもロイもエスクゥアイアー・マガジンのベストドレッサーに選ばれた事が有った。

ある夜、ギグに2匹のワイマラナー(グレイの色をした猟犬)を鎖につないでロイが現れた。その時驚いた事、ロイはそのグレイの犬と同じ色のスーツと帽子と靴で現れた。

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    Miles Davis at Beacon Theatre

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    Roy Haynes

老人とかもめ

9月11日のあとだった。3月頃バッテリー・パークに行った、ベンチに座ったこの老人はカモメに食べさせるためにパンを空中に投げていた。空中に舞ったパンを風に抵抗して飛んで来たカモメは空中でキャッチ、外したパンは地面に落ちてそこにいた鳩が食べていた。9・11の後だったので、何かを考えさせられた。

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    Old man and seagull, Battery Park

    price: ¥20,000(税込)/edition: 10/size: W319 x H410 x D31 mm

雪の降るダイアモンド街 —Diamond District

5th Ave. & 6th Ave. 47th Street にあるダイアモンド街は通りに面する店で200万個以上のダイアが置かれていて2,600件のビジネスが行なわれている。1800年から1900年まではチャイナタウンの近くキャナル・ストリートでユダヤ人が主にビジネスをしていた。1920年までにダイアモンド街は形成され、その後1941年に現在の47ストリートに移動した。

当時はユダヤ人がローワー・イーストに沢山住んでいた。今流行っているオーチャード・ストリート近辺はユダヤ人が沢山住んでいたけれど、昔はゲットーみたいな所だった。

キャナル・ストリートに有ったダイアモンド街は今では中国人が宝石商を構えている。ダイアモンドはもとより、ゴールド、翡翠なども置いている。

48ストリートは楽器屋も沢山有ったけれど今は引っ越したり潰れたりでほとんど無い。ダイアモンドは永遠なり、音楽はウエブのビジネスで店が無くなった。

私のおふくろが言っていた事を思い出す。戦争やその他の異変がおきた時に、ダイヤモンド、金、翡翠、宝石なんか持っていると簡単に持って逃げられる。

そして、何時でも価値が代わらずに売る事が出来る。ユダヤ人や華僑は自分の国を持たずに生きて行くためにお金を宝石類に変えていた。

ニューヨークのチャイナタウンには翡翠を売っている店がエブリ・ブロックにある。

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    Diamond District, 47th Street

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    Diamond District, 5th and 6th Avenue

Moondance Diner —Avenue of America & Grand Street

このダイナーは1933年に開店した。最初の名前はホーランド・トンネル・ダイナー。レストランは34人座れ、6テーブル、カウンターに10の椅子が有った。2007年、家賃が上がり閉店を余儀無くされた。ダイナーは8月1日までに壊さなければならなくなる。近所の人達が努力したにも関わらず閉店した。

その後、その店が$7,500で売りに出された。なんと買い手はワイオミングまでダイナーを運送。2,400マイル(3,840キロ)をトレーラー運送。運送賃は$4,000だった。運ばれたダイナーは雪の重みで屋根が壊れた、その後、修理してハンバーガーの店になったそうだ。最初は上手くビジネスは成功したが、その後、ワイオミングの不況が理由で2012年3月にダイナーは再度クローズに至った。

2012年の7月にまたもやダイナーは売りに出された……。

ムーンダンス・ダイナーのAvenue of Americaのオリジナルの場所にはコンドミニアムが建った。

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    Moondance Café #1

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    Moondance Café #2

Chelsea Antique Market 26th St. bet. 28th St.. Parking lot

週末の土曜と日曜は駐車場が空になるので、そこで蚤の市が開かれていた。

面白いガラクタが沢山有って楽しかった。今では駐車場にビルが建ち、アンティーク・フェアー(蚤の市)は無くなった。しかし、その場所の近辺にアンティークの店が移り住んで営業している。「所詮は蚤は大きなコーポレートには適わない」

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    Flea Market

キース・へリング

SOHOでキースが壁に絵を描いていた。

見れば解ると思うけれど、ゲイのアシスタントが何人かいた。

キースの絵はヒップだ!

私はジャズ・クラブの帰りにダウンタウンのフランクリン・ストリートの地下鉄の駅で広告ボードの広告が貼られていない台紙の黒い紙にチョークでキースが落書きをしているのを良く見た(広告ボードにポスターが張られていない時は黒い台紙がはられていた)。絵は独特のフィーリングで素晴らしく楽しめた。ある日駅でキースが落書きしていて、ポリスに追っかけられていたのを見た。

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    Keith Haring working on SoHo wall

    price: ¥20,000(税込)/edition: 10/size: W319 x H410 x D31 mm

Times Square ─タイムズ・スクエアが新しく今みたいに生まれ変わる頃

タイムズ・スクエアが隆盛だった頃、リチャード・ランドトリーの主演した『シャフト』をここで観た。黒人の主演した映画がこの頃大変に流行った。シャフトは封切りされると長い行列が出来ていた。『スーパー・フライ』もここで観た。黒人の探偵が白人をやっつける内容で黒人やマイノリティーの人に受けた。私もこの白人をやっつける黒人の探偵を応援して、大変に映画を見て溜飲をさげたというか? この頃私は黒人サイドから物を考えたり見たりしていた……。

その後タイムズ・スクエアは荒廃した。劇場は映画3本で5ドル一晩中劇場はやっていた。劇場の中は小便くさかった。この辺りにはフッカー(売春婦)もいたしピンプ(ヒモ)もいた。潰れかけたホット・ドッグ屋なんかもあった。

今のタイムズ・スクエアはマクドナルド、バーガー・キング、ケンタッキー・フライドチキンと全てが大企業経営のファースト・フード店ばかり、ニューヨークで食べてもロスで食べてもどこで食べても味は一緒だがアジはない。確かにタイムズ・スクエア安全になったし、小便くささもないけれど……。

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    Chihuahua & Cat, Old Lady & Man

    price: ¥20,000(税込)/edition: 10/size: W319 x H410 x D31 mm

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    Do. Do. Do. (Bowery)

    price: ¥20,000(税込)/edition: 10/size: W319 x H410 x D31 mm

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    Two Dogs Village Village

    price: ¥20,000(税込)/edition: 10/size: W319 x H410 x D31 mm

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    Cat & Hats

    price: ¥20,000(税込)/edition: 10/size: W319 x H410 x D31 mm

BASSの話

日本の企業が本格的にアメリカ進出を始めた1970年代、まだMade in Japanは、安かろう悪かろうの時代だった。そんな頃、私へ日本の楽器会社やオーディオ会社からコンタクトが有った。

ヤマハ楽器はドラムス、ギター、ベース等を作り始めた。

ヤマハのベースのデザイナーが楽器を持って私のロフトに訪ねて来た。

持って来た楽器の音は悪くなかったけれども、デザインはフェンダーのコピーみたいな楽器だった。デザインにオリジナリティーがなかったのだ。

私はデザイナーに「ヤマハは優れたピアノを作る能力があるのだから、ボディはピアノの塗装を使い、弦を巻くペグはピアノのヒンジ(真鍮)金色にしてみたらと……」助言した。

数ヶ月してヤマハから航空便でベースが送られて来た。黒いボディーはまるでピアノの塗装、ぺグとかブリッジは金色の真鍮で出来ていた。オリジナリティーのあるデザインのヤマハBBベースの登場である。

それから、ボデイを軽くする様に話した。ボデイを軽くした事によりミッドレンジの音が出る様に成りスタジオミュージシャン達が使用し始めた。このベースは現在でも沢山の人が使っている。チャック・レイニー、ポール・マッカートニー等のスーパー・スター達も所蔵していると聞いた。

After Beat ─アフター・ビート

1964年に音楽をアメリカで聴くため、観るためにニューヨークにやって来た。ある夜、123丁目のアムステル・アべニューで柔道家のオデール・テリーが話しかけて来た。彼は海兵隊で日本に滞在、日大で柔道を習ったそうだ。後にパン・アメリカンのチャンピオンになった。少し日本語を話せた。私がジャズに興味がありニューヨークに来た事を知り、毎週ハーレムのジャズ・クラブに連れて行ってくれた。

バードランド、ヴィレッジ・ゲート、ファイブ・スポット、ヴィレッジ・ヴァンガード、ハーフ・ノート。ハーレムのジャズ・クラブだと、ミントンズ・プレイハウス、カウント・ベイシーズ、プレリュード、ペパーミント・ラウンジ(R&B)、アポロ・シアター、クラブ・バロン、ベイビー・グランド、ウエルスなど。こういったクラブに通った事は今となっては本当に最高な想い出になっている。

ジャズを身近に聴いていたら自分でも演奏をしたくなった。ある日ヴィレッジ・ヴァンガードでマイルス・デイビスのセクステットを観た。ウエイン・ショーターとジョー・ヘンダーソンの2サックス、ハービー・ハンコックのピアノ、トニー・ウィリアムスのドラムス、ベースはその夜はレジー・ワークマンだった。あまりの音楽の格好の良さに、私は打ちのめされていた。無意識のうちに面識のあったレジー・ワークマンにベースを教えて欲しいと尋ねると、「来週、私のアパートに来なさい。」と言ってくれた。次の週にクイーンズに住むレジーの家を訪ねた。ベースのレッスンも貴重なものだったが、それよりもニューヨークでどのようにしたらジャズ・ミュージシャンとして、生きていけるかという事を教わった。これが本当に貴重な教えだったと思う。服装から考え方まで、もろもろの事をベースのレッスンと一緒に教えてくれた。レジーは私からレッスン料を決して受け取らなかった。私がお金を持っていない事は知っていたと思う。でも、お金のために私にいろいろ教えてくれたのではない事は間違いない。

ある日テリーからマルコムXの講演があるからと誘われた。私は音楽しか興味がなかったので行かなかった。次の日にマルコムが暗殺されたのを知った。後で聴いた話ではマルコムの物語は映画の内容とは全くかけ離れたストーリーだった。

別の日にはニーナ・シモンの教会の演奏に誘われベースを持って出かけた事がある。ニーナの演奏は始まっていた。ステージ袖で見ていたらニーナが手招きしたので図々しくステージに上がった。教会には5千人ぐらいの人々が! 2曲ほど演奏したけど、その時の演奏の事は上がっていて覚えていない。それにしてもニーナは何と親切な人だったんだろう。

数年して知らず知らずのうちにベースで演奏する機会が増えて、ロイ・ヘインズのバンドで演奏をするようになっていた。そのあと、誰のバンドで演奏をしていたかは忘れたけれど、ある日カーネギー・ホールのステージに立っている自分に気がつき、その時には恐怖で足が震えた。

その頃からレコードを作る事に興味を持った。録音すれば沢山の人に価値のある素晴らしい演奏を聴かせる事が出来ると、まずは単純に考えたからだ。時間が過ぎて、気がつくとレコードを作る仕事に携わっていた。レコードを作る事に関係した後には、人に音楽を聴かせるにはコンサートを制作する事が必要と考えて、コンサート制作をオーガナイズする様になっていた。そのうちにラジオの番組を作って、沢山の人に良い音楽を聴いてもらえればと考えた。気が付くとラジオの番組を制作していた。その番組『ヒップポケット』は日本のFMラジオ界に多大な影響を及ぼした。

私の今までの経験はすべて音楽へのリスペクトに始まり、まさに音楽の生活だらけのバイオグラフィーになっていた。音楽は社会との良いコミュニケーション・ツールであり、エイズ・アウェアネスも音楽をツールにしていた。結局のところ、すべて音楽だったのである。

今日までの永きに渡り、私の考えは全然変わっていない。レコード制作も、コンサート制作も、写真も、ラジオもだ。考えてみれば、音楽家が社会と関わるのは当然の事である。例えば私はエイズのチャリティ公演によって、エイズを社会に知らしめ、意識化させた。

一人一人のやり方は違ってはいたが、先人の音楽家達は社会と関わる事をしてきた。ビリー・ホリディ、ジョン・コルトレーン、マイルス・デイヴィス、ニーナ・シモン、マックス・ローチ、チャーリー・ミンガス……

勿論、私の音楽は彼らの足下にも及ばないかもしれない。しかし自分が何を考えているか、自分が何をすれば良いのか、私は私なりに出来る事がある。それを追求するのがジャズだと思う。

最初から他の人との比較の対象に成らない事をやる事が、ジャズだったと思う。Going my Way...まさに「比較の対象に成らない生き方をする事」がジャズの本質だと私は考える。「結局、レーベルとかタイトルとかそんな事ではなく、個人なんだよね。」それが黒人のジャズだった。俺は自分をジャズと同化させるために黒人の女性との間に子供を作った。その子供達は俺の事を尊敬してくれている。

これまでの事を改めて振りかえってみると、「私がやりたかったジャズ」は私なりにある程度は成功させた。後悔する必要はないという事だろうか?

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    Infant Eye, Man and Parrot

    ウエスト・サイド・ハーレムの公園を散歩していた親子とオウム。
    プエルトリコ出身のこの男性の表情はハードだ。
    彼の表情とは逆に少女の眼は父親に対する信頼感を感じさせるし彼女の眼は大変にクリアーで対象的だったのが印象に残る。

中村照夫写真展「NEW YORK GROOVE」
MDP GALLERY / 2015 Dec. 11–25

Produced by Kouichi Kaneko (Fuji Television Network, Inc.)
New York Groove Photo & Text by Teruo Nakamura

Artwork by Takatsugu Masuda
Photo Supervised by Mitsunori Sakamoto
Frame by Kazuho Saito (INFRAME)

Album New York Groove released by RATSPACK Records
Executive Producer: Makito Tanahashi (RATSPACK Records)

Teruo Nakamura endorse:
FM Atami-Yugawara, ESP Guitar, Blue in Green, Jaisel, Jazz Bar Root Down & Yes George

In memory of Mr. Akiyoshi Miyashita (photographer)
November 20, 2015

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